京都・田中豊享の帆布&デニム鞄をご紹介させて頂きます。
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田中晶の日記
田中晶の日記:6
父の2500日 ALSと戦うバッグ作家 8
2008年04月11日

8 <父の人物象その③>

 

父は人付き合いが本当に大好きな人間で、元気だったころは毎日のように

誰かと食事に出かけていた。人からの誘いがあれば、どれだけ忙しくても、体調が悪くても

決して断ることはしない・・・!たとえ初対面の方でも、“この人は素晴らしい!”と思ったら、

連続で飲みに行っては一週間で親しくなり、とことんまで付き合う!

しかし、“この人は嫌い”と思ったら、一切付き合わない!!

好きな人は好き!嫌いな人は嫌い!とはっきり言うタイプなだけに、近寄らない人も多いが

それ以上に人脈は広い。

体が不自由になるにつれ、外に出かける回数は減ったものの、逆に父の周りに集まってくる人が

増えたように思った。

人を心から大切に思っているからこそ、人も父の傍に寄って来てくれるのだろう!

 

父の2500日 ALSと戦うバッグ作家 6~7
2008年04月10日

6 <父の人物象その①>

私は、軽井沢摩耶をオープンしてから休むことなく接客をしてはジーンズを販売する

毎日を送っていた。一方、父もあれから特に体には変化が無く、京都で普段と変わらず

仕事に励んでいる。会社のショールーム(現田中豊享の店)の専用椅子に座り、

日々来社するお取引先との対話で忙しいようだった。

しかしそんな合間をぬって、父は毎日軽井沢の店に電話をかけてきていた。

内容はいたって簡単!店の電話が鳴り、私が電話に出ると・・・

“おい!どや!!忙しいか?天気はどうや?人出はあるか?”といつも父が尋ねる!

そして私が“今日は天気もいいし忙しい!”とか“今日は人出が少なく暇や!”と話すと・・・

父は“そうか!まあ頑張れ!!”といって“ガチャン”と電話を切る!おそらく1分間も話してない!

別の話をしようとして“あのな”と言った瞬間には電話が切れている・・・。

なんて電話が早い親父なんだ!と私はいつも思うのだが、分らないことでもない・・・。

実は私も、父ほどではないが用件さえ伝えればすぐに電話をきっている。

やはり血が繋がっているからか・・・?

 

少しづつ田中豊享がどんな人物かをご理解して頂いているかと思いますが、

ここであらためて紹介しましょう!

 

とにかく “頑固一徹で落ち着きが無く、思い立ったら即行動し、猪のように突き進む”性格!

何度も言うが、家族や職人達、周りの人間はついていくのがとにかく大変です!!

ある日の職人とのやり取りのこと・・・。

両手が不自由になった父は、自分でバッグのデザイン画を書くことができず、

忙しい母に代筆を依頼した。母が書く絵は、はっきり言って“下手だ!”

それでも何とか父の思い通りにデザイン画を書き上げ、

これを職人に見せて打ち合わせをする。父は、職人に事細かに説明をするが、

困難な要求のため、いつも職人が悩んでしまう!それでも職人は何としても形にしようとし

仕事を始めるのだが・・・。

ニ日後くらい、父が職人に “どや!出来たか?”と聞くが・・・

職人は “そんな早くに出来上がるわけが無い!” と怒る!

職人は、別のバッグの生産に追われて大変忙しい!そんな中、どのようにパターンをおこすか

などイメージする時間も無い!だから怒るのも無理はない!

父は、デザインやイメージを伝えれば、二日後には形になって出来上がるものだと

思っている。何とも自己中心的な考えだ!

しかし、何故か父の考え方が理解できる私がいる・・・。つい重ね合わせて笑ってしまう・・・!

でも本当に周りの人は大変だ!!それでも皆 “ブツブツ” と文句を言いながらでも、

今までやってこれたというから不思議でしょうがない!

皆が父の事をよほど理解しているからこそ、数々の不可能を可能にしてきたのだろう!

皆に感謝!!

 

7 <父の人物像その②>

 

父は仕事の関係者や知人の中で、『田中先生』と呼ばれている。

プロフィールでもご紹介したが、バッグの事業を創める前は、数社メーカーの

顧問並びにクリエーターとして活動をしていました。あらゆる商品制作に携わり監修

してきた父は、自身でも図案や文字を描くなどで、他では真似の出来ないヒット作を

世に送り出していた。

この当時から、“絶対妥協は許さん!” “余所にないものを創る!”

“スピーディーに!” が口癖だった・・・。

色や形、出来上がり具合などは常に完璧でなければならない!

少しでもダメな部分があると、一からやり直しという事もしばしばだった・・・。

職人が作りやすいモノは、余所でも作れるから胸をはって歩けない!

頭を切り替え、別の仕事をすばやくこなす柔軟性が大事!という意味を持つのだろう。

事実、父がこなす仕事は非常に素早い!たまに“アッ”とミスはするが、

これをさらに完璧に仕上げる!そして自分のやるべきことが終わると、後は人に託し

また次の新しい事を考える・・・。

ここで前編の<父の人物像その①>でもつづった内容を振り返って頂きたい。

父の頑固一徹でセッカチな性格や普段の職人とのやり取りというのは、言い換えれば

モノ創りに対する“スピリット”なのだと・・・そしてこの精神こそが、

人と人との繋がりをつくり、仕事仲間や職人達との信頼関係を築いてきたのでは

ないかと私は思う・・・。

だから現在でも『先生』と呼ばれているのだろう・・・!

父の2500日 ALSと戦うバッグ作家 4~5
2008年04月02日

4 <父の楽しみ>

 

私が軽井沢の住民になって7回目の春を迎えたころ、ジーンズプラザ摩耶・軽井沢店を

独立させて頂くこととなり、2000年4月、軽井沢・摩耶としてリニューアルオープン致しました。

ちょうど軽井沢では桜の開花時期に重なり、旧道ロータリーの大山桜が咲き始めたころでした。

父と母、後輩や友人達も応援にかけつけてくれて、皆でピンク色の桜を見ながら

販売していたのがつい最近のように思える。

そして店の前に背もたれの高い父専用の椅子を置き、そこに “ドン” と座っている作務衣姿の父。

髪の毛は紫色で坊主頭、めがねをかけて髭もはやしている。

おそらく誰もが普通の人とは思わないだろう・・・。

そんな父が、行き交う人に声をかけ世間話をし始めた。 “オイオイ!大丈夫かいな?”と

私は心配になったが、父と話をする人が皆楽しそうに笑っている。

時には、付き合いで品物を購入してくれる人もいた。これは、長年生きてきた父の話術なのだろうか?

感心しつつなぜか心強くも感じた。

そして私は思う・・・軽井沢での父の楽しみは、私の店を見守り、店の前で人と会話をし、

より店を活気付ける事なのだと・・・。

 

5 <帰りの東京駅>

 

この頃の父の病状は、両手の自由が利かなくなってきており、自分で服を着替えたりすることが

困難な状態でした。首にも少し異変を感じ始めましたが、足腰までは侵されていないのが幸いで、

普通に歩くことは出来ました。

そろそろゴールデンウイークも終わりに近づき、父と母が軽井沢から京都へ新幹線で

戻る途中のことです。

あさまが東京駅に到着し、東海道新幹線のホームへ向かう際・・・

いつもながら “セッカチ” な父は、足早に歩いていき、父のことを気をつけながら

追いかける母・・・。父が階段を “トントントン” とテンポよく下り終えようとした時・・・

“ドスン”という音がして、父がうつぶせになって倒れてしまったらしい!

父のアゴは割れて血だらけになっており、母が “誰か救急車を呼んでください!”と大声で助けを求め、

駅員さんがすぐに来ては救急車の手配をしてくれて、即病院へ・・・。

結局、アゴを5針縫う怪我となりましたが、骨にも異常は無かったのでそのまま京都へ戻ったという。

後から聞いた話によると、階段を下りている途中に父が足を絡ませ、そのままアゴから

倒れたという話です。それもそのはず、父は手が使えないがゆえにバランスもとることがない。

だからアゴで全てを支えたというが、何とも想像しただけでも痛々しい!

アゴの骨が砕けなかっただけでも何よりです。

これからは、焦らず自分の体の状態を考えて行動して欲しい!と私は父に言いました!

しかしこれを期に、父は頻繁につまづくようになり、今考えれば少しづつ足にも症状が回って

きてたのだなと思いました。

父の2500日 ALSと戦うバッグ作家 3
2008年03月30日

私の日記は、父がALSと告知されてから現在までの約7年間の出来事を中心に

つづる考えでおりますが、田中豊享というのはどんな人物なのか、あるいは

健康だった頃、ALSと診断される以前(ALSキャリア)の頃の生活なども振返り

ご紹介できればと思っております。

そしてこの日記を、難病の方や健康の方を問わず、一人でも多くの方々に読んでもらい、

情報交換が出来る場となれば幸いに思います。

 

3 <第二の故郷軽井沢>

 

長野県の中東部に位置する、浅間山麓のオアシス軽井沢。

年間800万人もの観光客が訪れる、日本でも有数の避暑地であり、

別荘地としても名が高い。

軽井沢の素晴らしいところは何ですか?とよく聞かれますが、

標高約1000mということもあり“水と空気が何よりも旨い”と

私は皆に話します。

この地に私達家族は、祖父の代から数えると約40年間のゆかりがあり、

当時は工房を持つなどで、今では第二の故郷と言っても過言ではありません。

私の幼いころ、毎年夏休みになると軽井沢へ連れられ、遊びや勉強をしながら

ひと夏を過ごしたのことが懐かしく思えてきます。

ある日突然 “明日から軽井沢に行くで!準備しときや” と父に言われ、

あわてて皆で支度をし、翌朝5時には車で出発して、10時までには軽井沢に

着いていた。京都から軽井沢までは、450㎞の道のりではあるが、

これを4時間半で車を走らす父は、今で言う“親父暴走族”だったのだろう!

とにかく、落ち着きのない性格で、思い立ったらすぐに行動しないと

気がすまない人間でしたね!今でも・・・。

これに合わせる家族は、本当に大変でした!今でも・・・。

私は高校卒業後、ジーンズプラザ摩耶の創始者である小林昭二会長の元で

修行をさせて頂く為上京しました。当時は東京の成増店、東中野店、笹塚店、

長野の軽井沢店と4店舗あり、最初は、成増店に勤務することになりましたが、

ゴールデンウィークと夏は、必ず軽井沢店へ応援に出向いていました。

そして約2年後、軽井沢店へ転勤し、軽井沢の住民となったのです。

私が、軽井沢で仕事をしているわけですから、父と母は頻繁に軽井沢へ

訪れるようになりました。ゴールデンウィークやお盆はもちろん、

連休のたびに来ては人と会い、仕事もし、そんな中、軽井沢という

自然の中で育まれた木々や山野草、苔、川、生物などを常に観察し、

次のアイデアへと繋げる何かを必ず持って帰ってました!

軽井沢を訪れる人々の大半は、避暑あるいは別荘、森林浴、ショッピングといった

リフレッシュに来るのがほとんどだと思います。

そんな中、軽井沢をよく知る通の方々は、いきつけの店をそれぞれ持ち、

日常生活とは少し違うゆっくりとした時間が流れる生活を楽しんでいるのでは

ないかと私は思います。

私達家族にとって、かけがえのない故郷!KARUIZAWA!

 

父の2500日 ALSと戦うバッグ作家 1~2
2008年03月23日

1 <田中豊享のプロフィール>

 

雅号:田中豊享(タナカホウキョウ)

本名:田中愃毅(タナカヒロキ)

昭和19年8月京都市に生まれる。

図案家である田中一鶴を祖父に持ち、文様と織を追及しながら

絵筆に生きた図案家、田中勇二を父に持つ三代目。

高等学校卒業後、日本図案家協会名誉顧問の稲垣華雪氏の元で、

十年間にわたり師事する。

独立後、他数社に亘ってクリエーターとしての活動を始める。

自らの創作活動に磨きをかけるために、十数年間にわたり、

全国の和装、洋装、ファッション雑貨等、専門店200店舗以上の扉をたたき、

クリエーターとしての確固たる地位を築き上げる。

全国行脚中、今から約30年前に『酒袋』という布にめぐりあう。

夫婦そろって酒袋バッグの製作に乗り出し、創作点数はバッグ数万点、

又きもの、帯、のれん、タペストリー等の製作も数万点に及ぶ。

しかしながら、、15年ほど前から醸造の進歩により酒袋の入手が困難になる。

独自で酒袋に近い布を開発するため、何度も試行錯誤を繰り返し、

数年がかりでようやく創り上げたのが『帆布さかぶくろ』。

1996年田中豊享バッグの始まりであります。

 

2 <ALSと診断、そして共存の決意>

 

数年後、左肩の異変に気づき、最初は五十肩だと思い自然に治るだろうと

考えておりました。しかし、徐々に左手の筋肉が衰え、動かすことも困難になり、

やがて右の肩や手の筋力も衰え始めました。

リハビリをしながらも再三検査をした結果、7年前(2001年)難病ALSと診断されました。

ALSといわれても、最初はなにも分らなく、でもなぜ自分が・・・という思いが

非常に強かったことでしょう!

しかし、両手の自由が利かなくなるにつれ、徐々に受け入れることに・・・。

それでも、人付き合いが大好きな父は、母の付き添いで友人や仕事仲間と

度々食事に出かけました。

当然、会話は出来ても、自分では何も食べられず、母が殆んど世話をしておりました。

そんな中、必ず注文するのがストロー付のビールです!

家でも何処でも、ビールをストローで飲んでましたね!!

人から見れば『なぜ、あの人はビールをストローで飲んでいるのだろう?』と

不思議に思うのが普通でしょう。でも父は、周りの目も一切気にもせず、

なんで?と人に聞かれても、『ちょっと手がうごかへんだけや!』と笑って返事し、

当たり前のように、会話を楽しんでいました。

私は、そんな父の姿を見て、これがALSには絶対負けないという強い意志と

ALSと共存するという決意なのだと感じました。

父の2500日 ALSと戦うバッグ作家(はじめに)
2008年03月08日

<はじめに>

 

私の父、田中豊享は、バッグ作家でありながら、難病ALS(筋萎縮性側策硬化症)と

日々闘っております。

ALSとは、厚生労働省が定める特定疾患の一つで、運動神経細胞がおかされ、

身体の筋肉が萎縮していく進行性の神経難病です。

病状が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、

話すことも、食べることも、呼吸することまでも困難になってきます。

ただし、感覚、自律神経と頭脳はほとんど傷害されることはありません。

現在の父は、ベッドの上での生活を余儀なくされ、人工呼吸器を装着致して

おります。声は出ないが会話はでき、左手の中指のみでオペレートナビを

備えたパソコンを使い、バッグのデザインを描いたり、知人とのメール交換を

するなど、大変忙しい毎日を送っております。

そんな中、父が最近になって、丸一日がかりで手記を書きました。

どうか、是非読んでみてください。

<田中豊享の独り言>

ALSへ

わしはどういうわけかわからんがおまえにひっかかった!

世界中の人を苦しめて良いことなどしたことないだろう!

若い人にも襲いかかっているらしいな!おまえはどうしょうもない最低の悪や!

そのうちにきっと大ばちがあたるぞ!世界の先生の研究でおまえをやっつける

薬がきっとできる!だから首を洗ってまっていろ!

わしはおまえのお陰で体は全くうごかないし声もものも食べられない!

エンシュアだけで病気もあまり進まず5年生きている!不思議でしょうがない!

呼吸器をつけてのどにはカニューレ、胃には穴をあけてイロウ、

おしっこにはバルーンで寝たきり、絶対絶命!

本当にむかつく野郎だ!早く消えてなくなれ!

月曜、ビニール浴、洗髪!火曜、便!水曜、洗髪、呼吸器交換、バルーン交換!

木曜、シーツ交換!金曜、洗髪、便、体拭く、着替え!

土曜、カニューレ交換、膀胱洗浄!日曜、ひとやすみ!

現状はこういう状態でおちついている!ただ我慢ならんのはタンとツバだ!

ALS野朗を向かい打つには進行をとめる事とタンと戦うことやな!

絶対まけへんぜ!

私の体は動かないけどどういうわけか左手の中指が少し動きます!

それにあわせてスイッチをつくってくれてテレビとパソコンにつないでくれた

友人がいます!お陰でテレビ操作もすべてできるしナースコールもできる!

インターネット、メール、それに絵もかける!凄く仕事にやくにたっている!

病気になってよかったのは知らないパソコンを知ったことぐらいか!

そうかといってALSおまえだけは許せん!

一日も早く滅亡して二度と世の中にでてくるな!悪中の悪よ!

言葉が少しわるかったようでおゆるしを!

                              田中豊享  手記

日本ALS協会 近畿ブロック会報 NO.57 記載して頂きました。

 

私が日記を書き始めるきっかけとなったのが、この父が一生懸命書いた手記でした。

難病にも当然類があり、症状や進行状況も人により様々です。

しかし、与えられた環境を変えることが出来ないのも事実・・・。

そんな中、左手の中指一つで絵を描き、バッグデザイナーとして活躍している

人間もいるということを、そして難病と戦っている方々に生きる希望と勇気を少しでも

伝えることができればと思い、父の2500日を書くことにしました。